角幡唯介の「新・冒険論」を読みました。
角幡さんは、今、45歳の冒険家です。
様々な冒険を実際にしてきた立場から、「冒険」とはどういうものか?
その意義は何か?について、深く考察するものです。
私が、この本に至ったのも、
2021年9月に突如、始まった、謎の登山への傾倒から、
山岳関係の本を読みまくったことによります。
なぜ登山を面白いと思うかの
一端が、この本にも書かれているように思えました。
(私のようなローカル登山者とは、全く深みや規模感は違うにせよ)
冒険とは何か
従来の冒険論は、著名なジャーナリストである本多勝一によるものがある。
本多勝一は、冒険を取材した著作も多くあり、
シンプルに冒険を定義している。
1、 危険であること
2、 主体的であること
現代社会は、とにかく便利で安全という価値観に覆われているので、
この社会で、冒険は可能なのかという気がしますが・・・。
システムに覆われた社会
現代社会は、便利(合理的)で、安全という価値観に覆われているのだけど、
そういう価値観に支配されていることを自覚するのも難しい。
一見、冒険的に見える世界最高峰のエベレスト登山でさえ、
現代では、便利で安全に登れる山になってしまっていると。
より便利な装備や方法、GPSを駆使し、高度な天候予測や、酸素ボンベにより、
今や、誰でもエベレストに登れる時代になっている。
(渋滞がおきるエベレスト。現代の尖った冒険家は、エベレスト登山に興味はないという。)
角幡氏の冒険論
角幡さんによると、
冒険の本質は、「脱システム」にあると言いいます。
本書から、少し抜粋すると。
システムというのは人間の行動や思考を方向づけする無形の体系なので、
システム内部にとどまると否応なしにシステムによる管理を受ける。
しかし冒険して脱システムすれば、このシステムの管理から逃れて、それだけ自由な
状態を経験することになる。
(中略)
そう考えると冒険の自由とは、すべて自分で考え、決定し、行動を組み立てなければならない
自由だといえる。そこではシステムの管理のもとでは決して得ることのできない圧倒的な生の
手応えがある。それが脱システムすることによって得られる自由だ。
クライマー山野井泰史
日本を代表するというか、世界的な登山家の山野井泰史は、
10代の時から、山に取り憑かれ、
誰も登ってない困難なルートを探し出し、挑戦してきた人です。
山野井さんも、単独無酸素の人で、
無茶ばかりするんだけど、
誰もが驚くような困難な挑戦を、たった一人で行う時にこそ
自分の命が最も輝く気がすると言っている。
奥さんの妙子さんも、多くの手足の指を凍傷で失っているが、
登山への情熱は失っていない。
冒険の意義
角幡氏がいうように、
冒険は、システムでがんじがらめになっている自分の生活や人生を、
本質的に活性化、させるために、
システムの外側に出てみることです。
冒険して、脱システムをしてみないことには、
その私たちを支配するシステムにも気づけない。
冒険することなく、
本来の生の実感を得られない。
冒険することなく、
仕事をイノベーションすることも叶わない。
冒険することなく、
本質的に、私たちの人生をアップデートできない。
などと言ってみることもできそうです。
冒険的な行為が、圧倒的に輝くとすれば、
それは、
①危険である(死ぬか生きるかの淵に立つ)
②主体的である(自分でシステムから飛び出る勇気)
③脱システム(常識的判断ではなく、カオスへの跳躍)
ビジネスにおいても、事情は同じですね。
私たちは日常生活の中で、冒険的に生きることができているでしょうか。